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【生活】孔子曰く、”儀式”が必要なことには理由がある

歴史,生活

 私達は、日々の生活の中で意識的にも無意識的にも非常に多くの儀式を行っている。儀式というと宗教的で盛大に行われるようなものを連想するかもしれないが、それだけに限られない。礼儀作法・マナーと普段言われるような行為も広い意味では儀式だ。日常の中、例えば箸の持ち方や、ドアのノックの仕方など些細なことでも、"こうするべきだ"とされているものはとても多い。

 だが、箸の目的でいえば、食べ物を掴むことであり自分にとって持ちやすい方法が一番目的に叶うし、ノックの目的は、自身の訪問を相手に告げることなのだから方法は無数にありそうだ。そうなると、それらの場面で求められる礼儀作法・マナーとは何者なのだろうか?それが必要というためには、行為の本来の目的とは別の部分に新たな独自の目的を見つけなければいけない。

 孔子は、これに答えていた。より良い社会を作るためには自分自身の人格を向上させる必要があり、人格を向上させるためには儀式を行うことが必要なのだと。つまり、儀式の究極目的は、"より良い社会を作るため"という壮大なものだ。

敷物をまっすぐ整えると、世界がより良くなっていく?

社会的混沌の時代に生きた孔子は、より良い社会を生み出すにはどうすればよいかを考えた。
 彼の答えはこうだ。必要なのは厳格な規律ではない。本当に必要なのは人々が良い人格、”徳”を持つことだ。特にリーダーとなる者が徳を持つことだ、と。
 それは誰かが命じるものではなく、自らの人格を磨いて徳のある者に成長させることだ。その徳のある者が他者に親切を行う。自らの行動でもって徳を人々に伝えていく。それによって身近な人々に、地域に、ひいては国家にまで徳を広げていくことができる、と。

 では、人格を磨くにはどうすればよいか。
 それは、”良い行い”と”儀式”によって磨かれるという。つまり、”何をするか”、だけではなく、”どのようにそれをするか”、にも注意しなければならないと。なにかを行うときに、それをどのように行うのかに注意を払って慎重に行うことで、自らの人格を磨き上げていくことができると。孔子は、座るときに必ず敷物をまっすぐ整えてからそうした。このような小さな行いから人格は磨かれていくのだ。

 また、自身が不可知論者であったにも関わらず、孔子は儀式の中でも特に宗教的儀式が重要であると考えていた。孔子が求めたことは超自然的ななにかを”信じる”ことではない。超自然的ななにかが存在するように”振る舞う”ことだ。

 孔子曰く、『死者を完全に生きていないように扱うなら愛情が足りないことを示すのでしてはいけないし、完全に生きているように扱うなら賢明さが足りないことを示すのでこれもしてはいけない。

 愛する人の死をどのように乗り越えていくか、私達は感情的にも理性的にもそれと向き合わなければならない。死者を弔う儀式が、この2つを調和させるプロセスに貢献することができる。
 哲学者馮友蘭曰く、『超自然的ななにかを信じる者による儀式は宗教的である。それを信じない者が信じているように振る舞って行う儀式は詩的である。』
 たとえ私達が無宗教者であっても、日常的な儀式と同じように、宗教的な儀式も私達が人格を磨いていくのに役立つのだ。

 これらの教えから何を学べるだろうか。
 私達が私達自身のあり方をより良くしたいと思うなら、単になにか行動するだけではなく、それをどのように行うのかをより考えるべきだ。挨拶の仕方、歯の磨き方、机の整理の仕方等小さなことにちょっとした儀式を加えることで、私達はより良い行いをするための人格を作っていくことができるのだ。」

著者抜粋翻訳・引用元:こちら

以下、この記事についてのレディターの反応

名前: ICanSeeTheBay
 これが真実であればいいと思うよ。自分はこれを試みた、でもうまくはいかなかった。
 良い規範となるための行いをしても、実際のところ多くの人はそれを無視する。行いだけでは足りず、それがなぜ重要であるのかを示す言葉を添えることも必要だ。


名前: chaiscool
 個人の力は、リサイクルしたりプラスチックを使わないように呼びかけたりするのがせいぜいだ。
 より良い社会を作るためには、個人の力以上のものが必要だ。


名前: mr_thn_i_cn_stnd
>>chaiscool
 たしか記事にはリーダーこそ人格的に磨く必要があることが書かれていたと思う。リーダーもまた個人。


名前: Chaiscool
>>mr_thn_i_cn_stnd
 しかし、リーダーがたとえ人格的に優れていようと、リーダーとして果たすべき責任のあり方が人格的に優れている判断をすることと調和するとは限らない。


名前: ganjamozart
 私は韓国にルーツを持っており今でも儀式的なことを行っていて、儀式自体は美的な体験をもたらしてくれる。しかし、儒教となると、先祖崇拝や階級、敬意について非常に有害な遺産を残している。


名前: Harrytuttle2006
 ちょっと記事のタイトルが気になったから読んでみた。私はこれまで儀式というものは、それ自体なにも生み出さずなにも役に立たず、ただ宗教的な人々にとってだけ必要な心の支えのようなものと思っていた。
 ただ、儀式という反復的なものが与える心理的影響という観点には関心が生まれた。
 たしかに繰り返しは学習を大いに促進するものだ。儀式は同じことを繰り返すからこそそこに利点が生じるのかもしれない。
 新しい見識を与えてくれてありがとう。


名前: Peter_P-a-n
 理解できないな。存在しないものを存在するように振る舞うことになんの意味があるのか。それはただその存在を信じている人のためだけにしかならず、合理性を犠牲にして迷信を広めることに何の利益があろうか。
 むしろそうでなくなるほうが良い。何が基本的な現実であるかを皆で合意することは難しいが、そこにでたらめなことを入れ込むとますます難しくなるだけだ。


名前: meric_one
>>Peter_P-a-n
 儀式は迷信とも合理性を犠牲にすることとも関係はない。あなたは儀式の目的や利益を誤解しているのではないか。


著者抜粋翻訳・引用元:Reddit