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【哲学】なぜ自分だけ生き残ってしまった…、”生存者の罪悪感”はなぜ生まれ、どう向き合うか

アフリカ,心理学

 客観的に見れば自分が何も悪いことをしていないのに、どうしても罪悪感に押しつぶされてしまうような気持ちになったことはないだろうが?
 例えば、あなたは朝、外出する家族を何気なく見送ったが、その家族が外出先で事故にあい大きな怪我をしてしまった場合に、「どうしてあの時止めなかったんだ」と自分を責めてしまう、というような経験である。

 これは、"生存者の罪悪感(サバイバーズ・ギルト)“の1つの例であり、他では、ホロコーストから生き延びることができた人が「なぜ自分だけ生き残ってしまったのか」というような罪悪感を抱いてしまうケースが最も顕著な生存者の罪悪感の例である。

 このような感情はなぜ生じるのだろうか?、どのように向き合うべきだろうか?
 アフリカの哲学"Ubuntu“はこの答えを教えてくれるかもしれない。
(ちなみに、OSの方のUbuntuの名もこの哲学としてのUbuntuに由来する)

“抱くこと"はもちろん、それは"抱くべき"もの?

「津波から生き延びた人が、身近な人の死について罪悪感を覚えるというような話がある。また、アパルトヘイト後の南アフリカで成功した黒人が、未だに貧しい中で暮らすかつての隣人達に罪悪感を覚えるという話もある。
 彼らが罪悪感を抱くことは適切なことなのだろうか?、西洋哲学からすれば、それらは基本的に不合理・不必要な感情である。だがあるアフリカの哲学では、むしろそれは美徳足りうるかもしれない。

 生存者の罪悪感(サバイバーズ・ギルト)とは、簡単に言えば罪を犯していないにも関わらず罪悪感を抱くこという。つまり、仲間の死あるいは大きな被害が生じたことについて、その一因となることを自らはなにもしていないにも関わらず、彼らと共に死ななかったこと、あるいは彼らを助けられなかったことを、自らの罪と考え罪悪感を覚えてしまうことである。

 例えば、日本の映画監督・森達也氏は、東日本大震災時のことを以下のように回想する。
『地震があった日、私は友人達と六本木の居酒屋にいました。何千人もの人が亡くなっているときに、私はビールを飲んでいたのです。その時点では何が起きているか分かっていませんでしたが、それに気づいた時には自らを恥じ、罪悪感を覚えました。』

 だが、現代西洋哲学を支配する2つの倫理的アプローチの内の1つ、功利主義の見地からは、このような罪悪感は不合理である。

 功利主義は、”人の行いはすべて、社会をより良くすることに向けられるべきである”と、主張する。これは、罪悪感も、そう感じることが有益である場合でなければ合理性をもたないことを意味する。
 したがって、功利主義の立場では、『生き残ったことに罪悪感を覚えることは無意味である。先に進もう』と、なる。

 もう1つのアプローチ、カント主義からも、やはりこの罪悪感は不必要である。
 カント主義は、”人の尊厳は理性的な意思決定に由来する”と、主張する。これは、理性的な意思決定に基づく行いについては責任(罪悪感)を負わなければいけないことを意味するが、生存者の罪悪感で問題となるのは、罪のない人の罪悪感である。
 したがって、カント主義の立場では、『あなたは何も悪いことをしていないのだから罪悪感を覚える必要もない』と、なる。

 このような西洋哲学に対して、南部アフリカの哲学であるUbuntuからは異なる見解が得られる。
 Ubuntuの倫理の根本は、”人は他者を通じて人たる”、である。

 これは、自らのアイデンティティを形成したコミュニティに貢献し、そのコミュニティと結びついた生き方を体験することの必要性を表すものである。つまり、人は、仲間を気遣い、助け、生活を共同・共有することによって真に人たるのだ、という考えである。それ故に、”家族第一”、あるいは”慈悲は家庭より始まる”というような格言もある。

 このようなUbuntuにあっては、生存者の罪悪感は、コミュニティへの忠誠心や連帯感の表れであり、それを感じることで、より人は人らしくなれるのである。
 生存者の罪悪感は、自らの仲間と考えている相手に抱くもので、地球の裏側の見知らぬ誰かに対して抱くものではない。つまり、この感情は、自らのコミュニティとの結びつきと献身ゆえに生まれる善良な感情表現だと考えるのである。
 ある学者は、『罪悪感の苦悩と痛みは、不幸な運命を分かち合う手段である』と表現する。

 Ubuntuの目線から生存者の罪悪感を全く感じない人のことを考えてみよう。
 そのような人は、亡くなりあるいは傷ついた人に対して、連帯意識をほとんど持って
ないか、相手をあまり気にかけていなかったということになるのではないか。そうであれば、なぜ生存者は罪悪感を抱き、あるいは抱くべきなのか、Ubuntuは説明してくれているだろう。」

著者抜粋翻訳・引用元:こちら

以下、この記事についてのレディターの反応

名前: eric2332
この記事は『誰にも平等に気を配るべき』というのと『主として自分の仲間に気を配るべき』というものとの2つの視点を比較検証しているようだ。
思うに、人々はこのような二項対立は人生の指針として恐ろしい結果を招くと感じているのではないかな。
つまり、誰にでも平等な人は、家族や友人に対して本来あるべき温もりを持たなくなり、一方で仲間を優先する人は、その外部には偏見の塊になるかもしれない。
合理的な人は、時と場合に応じてこの2つは使い分ける必要があるという中間的な姿勢をとるだろう。

それから、生存者の罪悪感について言えば、それは必ずしも仲間を考える相手だけに現れるものではないと思う。
例えば、飛行機が墜落し自分だけ生き残ったら、たまたま一緒に乗っていただけの他の亡くなった乗客達に罪悪感を抱くと思う。
それは、「その罪悪感は、死んだ人々への同情で、あなたの心の強さの表れだ」というような説明のほうがより良い説明と慰めになるんじゃないかな。


名前: Moldy_slug
>>eric2332
その飛行機の例に関して、私はコミュニティ的意識が働いていると思う。
コミュニティは継続的なものだけでなく一時的にもそして重複的にも生じうる。
その例でいえば、その生存者は、少なくとも”人類全体”と”この飛行機の乗客”という2つのコミュニティを認識している。
それによって、どちらに対しても何かしらの義務感なり共感なりを感じることになる。


名前: clarissagavin
>>Moldy_slug
実際人間ってのは、非常に薄い関係であってもグループへの強烈な忠誠心を素早く簡単に持つことができてしまうことが心理学的には明らかになっている。
例えば”Aグループ vs Bグループ”だとか”紅組 vs 白組”だとか、意味のないものであっても。


名前: ApocalypseSpokesman
生存者の罪悪感の正しい原因は本当に記事にあるとおりなのかな。
もし私の身の周りで大勢の人が死ねば、「なぜ神は私を選んだのか、私はふさわしくない」と思うかもしれない。
しかしこれは、記事の言う共同体意識や自己意識とは異なるだろう。


名前: taricon
罪悪感は、感情的な意味で害しかなく、実際に苦しんだ人のためにもならないもの。
だからそれは無意味のみならず有害だ。それを肯定できるわけがない。


名前: GuruJ_
>>taricon
罪悪感というのは、とても向社会的な感情だから、それを抱くことはときに社会全体の利益になりうる。
一般的に罪悪感というのは、自らの行動の失敗に対する自らの感情的救済策だけど、Ubuntuのアプローチは、コミュニティのためのより良い行動への動機づけとしてそれを捉えるというもの。
例えば、津波から生き残った人は罪悪感を覚えて、コミュニティの復興を助け、それによってコミュニティと自らの罪悪感を癒していくなどだ。


名前: taricon
>>GuruJ_
それはたしかに理にかなう部分もあるが、しかしそれでも何も罪のない問題に対して罪悪感を抱くべきじゃないよ。


名前: nesh34
この記事の著者は、罪悪感・ネガティブな感情を、同情・ポジティブな感情にすり替えたって感じか。
記事ではUbuntuの考えは、個と集団の繋がりを強化することに価値を見出すと主張しているが、功利主義やカント哲学においてもそれは価値が認められているもので、別に矛盾対立しているわけではない。
違いがあるのは、実際に罪悪感が絆を強めると考えるか否かということだけども、たしかに功利主義からなら、罪悪感は障害にしかならず無意味だというだろう。
でも、"同情"ならそうではない、それは個と集団の絆を強めるポジティブなもので、功利主義でもカント的見地でも肯定されるだろう。
面白い記事ではあるけれども、この記事では真にUbuntuの独自性を説明するものになってない。
今言ったように、この生存者の罪悪感の場面では、功利主義やカント主義と相容れないわけではないからだ。


名前: SpookyLoop
この記事のタイトルは『生存者の罪悪感は理にかなってる』になってるけど、私なら『アフリカの視点はどのように生存者の罪悪感の思いやりの側面に光を当てるか』にする。


名前: Black-Muse
>>SpookyLoop
シンプルに『生存者の罪悪感に対するUbuntuの見解』でいいかもしれない。


著者抜粋翻訳・引用元:Reddit